「やさしい微熱」
柔らかい吐息をまぶたに感じ、ゆるやかな眠りから覚醒する。
まぶたを開くと、すぐ目の前には、見慣れた男のその寝顔。
天窓からの月明かりで、普段よりも心持ちシリアス気味に見えるその表情に、内心でクスリと笑ってみる。
視線を上へとずらしてみると、雨乾堂唯一の自慢であるその天窓から、見事な満月が顔を覗かせていた。
月の位置はそれなりに高く、夜明けまでには、まだ相当時間がありそうだった。
― ああ、そうか、あのまま眠ってしまったんだな
いつの間に差し入れたのだろうか、首の下にある男の腕の脈音に気づき、そっと耳を傾けてみる。
その少し高めの体温が心地よくて、体は自然とその距離を詰めてゆく。
トクトクトクトク。
まるで精密時計のように、安定した音色を奏でている。
俺は、覚醒する頭とは裏腹に、再びまぶたを閉じていた。
昨日は、久しぶりに体調を崩し、職務半ばで雨乾堂に引きあげ、床に伏していた。
隊長就任当時は、気負いのせいか、多少の無理を押し、そのたび激しい発作に見舞われること、しばしば。
結果、周囲にさらなる迷惑をかけることが続いたため、最近では、身体に少しでも違和感を覚えたら、自ら早めに申し出て、大人しく休養をとることにしている。
そんな今でも、やはり時たま、身体の変化に気づかぬ時もある。
特に、今現在のように、反乱の後処理で、いまだかつてないほどの業務に追われ、さらには、護廷十三隊から一気に3隊長を欠くことになった状況では、気を張らないでいる方が無理な話というものだろう。
実際、昨日も、自分では全く気づいてはいなかったのだから。
昼飯時、いつもフラリと詰所に現れ、「十三番の飯は美味いから」という、納得のいくようないかないような理由で、他所の釜を頻繁に食らいにきては、小椿にどやされている、この男。
そんな折、顔を合わせた開口一番、「顔色がわるい」と額に手をあてられ、「熱がある」とすぐさま指摘され、そういえば朝食時もあまり食欲がなかったような、と、そこで初めて、己の不調を自覚した。
その後はもうお決まりで、自己申告する間もなく、雨乾堂に押し込まれるのだ。
そして、自分の職務を終えたのか、はたまた、上手く抜け出す術を心得ているのか、そう遅くない時間に雨乾堂を訪れ、翌朝迎えにくるであろう小椿や虎徹が現れるまで、ただただ、俺の隣で寝息をたててゆくのだ。
少々異様にも思えるそんな光景は、隊内ではもう見慣れたもので、良いのか悪いのか、それをとがめる者は一人もいない。
俺は、相当に甘やかされているのだと思う。隊員にも。上層部にも。
そして、何より、いま目の前で寝息をたてている、この、男に。
「んご、ごっ」
と、その目の前の男は、突然、いびきともとれるような鼻音を鳴らした。
俺は、こみ上げる笑いを必死で噛みしめ、体を震わせる。
その鼻音にではなく、いや、この男がいびきらしきものを掻くのは本当にめずらしいことで、その外と内とのギャップを思い起こすと、どうにも笑わずにはいられないのだ。
軽薄を絵に描いたような風貌で、酒飲みで女好き、へらへらとどっちつかずな態度が常々。
伊勢くんも、いまだに相当手を焼いているものと聞いている。
しかし、実際は、というと。
常日頃から口説き文句をまき散らしてはいるが、毎回、押しの一手にいまいち欠けるとか。
不精の極みにしか見えないそのヒゲは、実は毎朝30分以上かけて整えた、この男流の細かいこだわりであるとか。
まるでズボラの大将のようなこの男の一人住まいを訪ねてみれば、塵ひとつ落ちていない、清潔この上ない空間で、本人いわく、整理整頓が趣味で、掃除が何よりの楽しみである(一番は拭き掃除だとか)という実態だとか。
昼間から酒の臭いをぷんぷんさせては、伊勢くんにこっぴどく叱られているようだが、こうして様子見に訪れる際には、酒の臭いは一切させず、しかしながら、時折、物欲しそうに唇をぺろぺろと舐めて、口惜しさを無意識にやり過ごしていたりするところだとか。
「な〜にを一人で、ニヤニヤしてるんだぁ? 」
必死に堪えていたつもりだったが、どうやら、起こしてしまったらしい。
その声に目線を上げると、ああ、もう、それはそれは女性に敬遠されそうな、だらしない大あくびを、ひとつ。
さらにおまけか、もうひとつ。
「あははははっ」
俺は、もう、たまらずに笑い転げてしまう。
「ちょっと・・・。いきなり何かな〜、それは? 」
と言って、俺の頬にそっと手を添え、額に額をコツンと当てると、ニヤリと相好を崩す。
その一瞬で、俺の体温が平常に戻っていることを、つぶさに確認したに違いない。
全く、この男は。本当に、なんというか・・・。
もう長年の付き合いではあるが、この男のこういった奥深さには、正直、毎回驚かされる。
こういう時は、一体どんな表情をすればよいのだろうか。
おずおずと視線を上げると、覗きこむように微笑んでいる男の、その視線とかち合った。
その瞳の色が、なんだかとても、優しげで。
痛い、ほどに、優しげで。
気づけば俺は、自然と体をすり寄せていた。
「ん? どうしたぁ? 」
相変わらずの、能天気な響き。
「いや、お前の体温で暖をとろうと思ってな」
俺は、ことさら涼しげに、サラリと答えておく。
「そ〜れは大歓迎だ。そんじゃ、ぼくは君から冷気をいただくとしましょうか? 」
そう言うと、両の手を俺の背中に回りこませ、さらにグッと引き寄せる。
彼は、俺の、ひんやりした体温が心地よいと言う。
俺は、彼の、熱いくらいの体温を心地よいと、思う。
だから。
お互いが寄り添うのは、至極当然のこと。
そう。
すべてが、きっと、自然の法則なのに違いない。
ポンポンと背中を叩くやんわりとしたリズムに誘われてか、急速にまぶたの重量が増してくる。
ぼやけはじめる視界の中、チラリと映った男の笑みに、意味もなく安慮する。
そして俺は、一層その身をすり寄せると、ゆっくりとまぶたを閉じた。
目を閉じると、男の温もりが一際リアルに感じられ、少しばかりおもはゆい気分になる。
そして、少しだけ。ほんの少しだけ。男の体温が増したような、そんな気がした。
そう思ったら、俺の体温も、わずかに上昇したような、そんな、気が、した。
― ああ、こんな微熱ならば、そう悪くはないかもしれないな
遠ざかる意識の中、なぜだか当たり前のように、そう、思った。
END...
「やさしい微熱― A Natural Slight Fever」
20060125/Written by KURY